経歴

経歴

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経歴を時系列に箇条書きで紹介するのは本意ではないので、エッセイ風に。

生まれは熊本です。

私が3歳の時に、父はおもちゃ代わりにカメラ(二眼レフ)を私に与えました。

三つ子の魂百まで。と言いますが、

その時にフォトグラファーになる運命が決まっていたのかもしれません。

父は物理化学の教師で、写真部の顧問をやっていました。自分の実験室を暗室にしていました。

当時は物がない時代、

引き伸ばし機も現像液も自作でした。

それだけ写真に愛着のあった父ですが、

私が写真大学や専門学校に進むのはもってのほかだと思っていたようです。

私は、写真大学ではなく、東京の普通の大学に進学しました。

卒業後、フリーランスになりたかった自分ですが、まだまだ技術も経験もない。

とりあえず、当時珍しかったコンピュータ系のベンチャー企業に就職しました。

当時は、人生、遠回りしている感じがしたのですが、

経験で無駄になるものはありません。

その時に身に着けた、コンピュータやOS、プログラミングの知識が

後のデジタル、ITの時代になって役に立つとは想像もしませんでした。

その会社を退社した自分は、フリーのテクニカルライターとして生計を立てることになりました。

その生活の中で、広告系のフォトグラファーのアシスタントをしながら、

少しずつ写真の技術を身に着けていきました。

当時、プロとしての撮影の知識がなかった自分にとって、

写真専門誌出版の玄光社の書籍は貴重な存在でした。

その頃から約10年後に、まさか、私がその玄光社の技術書の執筆をするようになるとは、

当時、想像もしませんでした。

経験や物事は、密接に繋がっています。

その不思議さを今、感じます。

独立して売り込みを始め、徐々に仕事が増えていった頃、

世の中はバブル景気になりました。

あの喧騒と退廃に耐えられなかった自分は、

アメリカへの移住を計画しました。

当時東京で仕事をいただいていたアメリカのコンピュータ雑誌のボスに保証人になってもらい、

アメリカの労働ビザの申請をしたら奇跡的にビザが取れました。

一人、知り合いもいないニューヨークに移住した自分は、すでに30歳。

すぐに売り込みを始めました。片っ端から広告代理店や出版社に電話してアポをとり、

ポートフォリオを見せて回りました。

幸いなことに、当時日本でお世話になったクライアントさんから、アメリカでの取材の仕事をいただい

たりして、なんとか食いつないでいる状態でした。

そうこうしているうちに、アメリカの広告代理店から最初のお仕事をいただきました。

その仕事とは、作品でも紹介している、元アメリカ国務長官のヘンリー・キッシンジャー氏のポートレ

ート撮影。

その後、ビザが切れて帰国するまで仕事をしたり、個展を開催したりで、人生で一番充実した時間を過

ごしました。

帰国後は、仕事が忙しく、とにかく時間が経つのが速かった。

現在まであっという間だ、というのが実感です。

国内外、多くの人と人生を見てきて、人間嫌いになったり、好きになったりの繰り返しでしたが、

やはり「人間とその生活」が好きです。

これからも、いろんな方のポートレートや生活が撮れたらと思っています。

ここまで読んでいただき、どうもありがとうございました。

主な仕事、個展

エディトリアル・新聞

月刊太陽、別冊太陽、マリクレール・フランス、マリクレール・ジャポン、エル・ジャポン、ヴォーグ・ジャパン、SOPHIA、コスモポリタン・ジャパン、ミセス、家庭画報、チェックメイト、フルール、週間地球旅行、「美しい着物」、Voce、With、朝日新聞、読売新聞、インプレッション

広告(タイアップ広告を含む)

カルティエ、ゲラン、エスティー・ローダー、SEIKO、ポラロイド・ジャパン、旭化成、コニカミノルタ、三菱重工、堀内カラー、SUBARU、アミューズ

作品掲載・記事執筆

100Japanese Photographers 2:作品掲載(シナジー幾何学・高橋周平監修) 「B/W プリントワークと暗室」表紙写真(玄光社) 「B/Wプリント処理の実際」記事執筆(玄光社) 「図解人物ライティング」記事執筆(玄光社) 「新・ライティングの実際」記事執筆(玄光社)

個展

1989 : サマー・ショー(グループ展)at ニューヨーク・ソーホーフォトギャラリー
1990 : イメージズ at ニューヨーク・ソーホーフォトギャラリー
1995 : スティルライフ at スタジオエビスフォトギャラリー
1999 : 21ポートレート at スタジオエビスフォトギャラリー
2013 : フォトエスプレッソ at IKI エスプレッソ

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